世の中にはいろんな不幸がある。
それぞれのストーリーがあって深い穴に落ちていく。形や深さや抜け出しやすさなどは様々だけれど、どん底にいる間はみなが同じ真っ暗闇を経験する。
でも、苦しみから抜け出すとか成功をつかむとか、幸福に続く道は似通っていて、多少の幅はあれど太い一本道になっている。
不幸の根底にあったもの、苦しみの乗り越え方について、自分自身を振り返りながら書いていきます。
不幸体質

私が「生きるのがなんとなくツライ」と最初に思ったのは5歳のとき。それ以降、家庭だけでなく学校でも言葉に出来ないモヤモヤがあった。もし言葉にできたとしても、子供の私が選べる選択肢は少なかっただろう。
個性的であることはたいてい煙たがられ、集団からはみ出さない・その人の価値観からズレないことが正しいと考える大人に囲まれていた。個人の問題だけでなく「そういう時代」でもあったと思う。
苦しい時はガマンする。時間が過ぎるのを待っていれば、いつか嵐はぬかるみ程度にはなる。ぬかるみならガマンできる
考えるのをやめてじっとしているのが一番いいと考えるようになっていった。
暴力を振るわれるとか、密室で何時間も怒鳴られるのはつらい。親や先生が怒っている(泣いている)のは「自分のせい」だと思わされていて、申し訳ない気持ちでいっぱいなんだけど、子供にできることはほんんどない。
自分なりに考えて行動すると、大抵は怒りを増幅させてしまいもっとひどい目にあう。
問題が起きたら、解決方法を探すとか誰かに相談するのではなく
ひとりで抱える
人に迷惑をかけない努力をする
嵐が過ぎるのを待つ
そんな習慣ができていた。
神様は頑張っている私をちゃんと見ていて、白馬に乗った王子様ではないけれど、たくさん苦しみに耐えたのだから、自然に任せていればいつか幸せが訪れると夢見ていた。
長い間苦しみから抜け出せなくなっている人には、私と同じように不幸から抜け出せない土台が出来上がっている人が多いのかもしれない。
不幸を認めて苦しみ切る

自分の経験や不幸から立ち上がった人の経験を通して思うのは、苦しみから脱出する最初のステップは
不幸があったことを認める
苦しみ切る
ということ。
以前の私は、辛い経験を冗談めかして人に話して「大変だったね」と言われると
- 「そんなことはない」と否定する
- 「自分よりもっと苦しんでる人がいる」と他人の経験と比較する
- 「この程度で苦しいと言っていいんだろうか」と不安になる
苦しいと感じている自分を否定して、頑張れない自分を責めていた。
不幸には本当にたくさんの形がある。
理不尽なこと、どうして自分だけ?と言いなくなるようなこと、共有する仲間がいないような経験、自分のことではなく家族に関する心配、途方もない額の借金を背負った、自分のせいで周囲の人に迷惑をかけてしまった、説明できない苦しみ・・・
でも苦しいのは自分だけじゃないし、苦しんでいる間も、放棄できない「社会的役割」がある。
学生なら学校へ行くこと。卒業したら働くこと。結婚すれば妻・夫として、子供を産めば親としての役割。この社会的役割を果たすのも辛いほど疲れ切ってしまうことがある。でも、この役割を放棄するのは勇気がいる。周りにも責められたりする。自分でも、何とかならないものかと思う。
いつまでも泣いてちゃいけないんじゃないか
そろそろ自分の役目を果たさないと
自分の経験程度で嘆いていいものか
ここで気持ちにストップをかけてしまうと、苦しみが終わらない。それどころか、後でまた似たような不幸に襲われる。
どんなに間違っていようと、苦しいものは苦しい。自分が果たす役割を可能なかぎり小さくする。場合によっては逃げるしかないこともあるけれど、
辛いことを否定せず、
苦しんでいる自分を許す。
そして苦しみ切る。
まずはここからだと思う。
心にあいた穴の形を知る
自分と向き合うことに満足すると、少しずつ周りが見えてくる。
家族や友人の様子が気になったり、同じ経験をした人の話をネットや本で見つけてみたり。視点が自分から少し離れて、周りの人を思いやれる。それが、どん底に着いて上り始めた合図かなと思う。
いきなり気持ちを切り替えるのは難しいけれど、興味が出たことから少しずつ動いてみる。悩む以外の時間・行動を増やしていく。
そして、ゆっくりでいいので自分を俯瞰(ふかん)して見つめてみる。
どんなことが起きて、
何が苦しくて、
どんな気持ちが捨てきれないのか。
心に空いた穴をしっかり見つめておかないと、もっと解決しがたい問題が入り込んでくる事がある。
薬物やお酒やギャンブル
摂食障害や恋愛の依存症
偏った意見の団体に所属したり
周りの人に苦しみをぶつけたり
犯罪に関わってしまったり
ぼんやりとでもいいので「そっちの道に行かないぞ」と意識しておくのは大事なことだ。
今朝、支払いがあってコンビニエンスストアに行った。ショーケースに並んでいる安酒を見て
「朝から酔っ払ってしまいたい」
という考えが頭をよぎった。お金がないから安くて酔える酒がいいと思った。あぁ、こうやって人はアル中になるんだなぁと冷静に見つめる自分がいて、何も買わずに店を出た。
心のスキが不幸を呼ぶ。
転落なんてあっという間なのだ。
苦しみの上に立つ
大好きな小川洋子さんという作家が、テレビ番組(Eテレ「100分de名著」)で『アンネの日記』について語る中で、とても印象的だった表現がある。
「耐えがたい苦しみがアンネの頭の上に乗っている。
降りかかってきた困難が、やがて足元へ移動して、アンネの土台になる。
押しつぶされそうになっている現実を言葉にすることで、苦難の位置を変えている。
苦難の位置を変えること。
それ以外に、人が苦しみを受け入れる方法はないんじゃないでしょうか」
対話形式のテレビ番組だったので全くこの通りではないけれど、とても胸に迫る言葉だった。
『アンネの日記』は、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクが、第2次世界大戦中、ユダヤ人狩りから逃れて暮らした隠れ家での2年間を綴った文学作品。
戦争に巻き込まれ、ユダヤ狩りから逃れて声も立てられない暮らしの中に、日常があり、恋が芽生え、普通の人たちが暮らしていたということ。その暮らしが奪われていく様が、少女の目線でみずみずしく語られていく。
私はアンネフランクと誕生日が一緒で、アンネにどこか親近感を抱いていた。今は重い小説を読み通す気力がないけれど、いつか必ず読もう。
苦しみをずっと頭の上に置いたままにしない。
肩が凝るのは重圧に耐えている証。
まず「苦しい」と口にする。
さらにずいずいと下ろして胸にしまい、腹に落とし、いつか苦しみの上に立つ時、人は不幸を乗り越える。
乗り越えた苦しみの大きさだけ、視点は高くなり、懐が深くなる。つらい経験から学んだことが使命に変わり、その人独自の生き方を作る。
世界で自分だけに起きた苦しみなんてない。苦しんだ時間と解決した道のりを言葉にすることが、同じ悩みを持つ人のヒントになり、暗闇は希望に変わる。
苦しいままで人生を終えるなんて悔しい。幸せは自分で掴んで引き寄せることが出来る。私はもう、何もできない子供じゃないんだから。
これはいま感じていること。自分のやっていることが何に繋がっているのか、先の景色は全く見えないけれど、未来の自分を信じる。
私にはたくさんの死んでしまった病気仲間がいる。
今日も生きている
それはやっぱりすごいことだ。